お寺でのご法座、「なまんだぁーぶ、なまんだぁーぶ・・・」孫娘のかわいい声がおまいりの方々をにっこりさせます。
この瞬間 私は自身の幼少期を思い出します。母方の実家近くに住んでおりましたので、毎年お盆(8月15日)と祖父(母の父親)の祥月命日(2月16日)の夜、近場に住んでいる縁者が本家に集まり、年長者が調声者(導師)となり、皆で「お正信偈六首引き、領解文」をおつとめしていました。 幼い私はお経の意味はわからず長いお経が早く終わらないかと「願以此功徳……」お経の最後のページに指を突っ込んで、それでも「なぁーもあぁーみだぁーんぶぅ」だけは大きな声で参加していたのです。何しろおつとめが終わったら美味しいお菓子やジュースがいただけるのですから。
しかしその幼子の口からこぼれ出るお念仏も年長者の口からこぼれ出るお念仏も阿弥陀如来の願いと修行が成し遂げられたみ教えです。私のいのちの行方に不安があれば、どうして我が人生を思いっきり生ききれましょうか。阿弥陀如来はお浄土というわたしが還れる場所をご用意してくださいました。今を生きる私にとってこれほど安心できることはありません。
私も還暦を過ぎ、これまでの人生を振り返るとき、幸せだったことが多かったと思いますが、一方では「あんなことは言ってはいけなかったろうし、やってはいけなかったのに。」と苦い思い出もあります。これも思い出す範囲のことだけで無自覚な言動もあったかもしれません。これから先も歳を重ねるにつれ、何をしでかすかわかりません。
阿弥陀如来は声の仏様と聴きます。私の口から「なもあみだぶつ・・」とお出ましくださり、み教えが鏡となり時には我が身を戒めたり、省みて悔やんだり、慶んだり、感謝したりを繰り返していくのでしょう。
梯実円(かけはしじつえん)和上は、
「念仏者の人生は、まさに懺悔(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)の交錯」
と教えてくださいます。阿弥陀如来のみ教えを聴いてるからといっても 人間そうそう変わるものではありません。むしろこれから先は自分で出来ることも減っていき、周りの皆さんのお手を借りなければならなくなるのです。今までにも増してみ教えをよりどころに懺悔と歓喜を繰り返しながら日暮らをしたいと思います。
「なもあみだぶつ」と阿弥陀如来が私の声で呼んでくださる……。これって有り難いご縁だなぁと思うこの頃です。
由仁町 本覚寺 髙橋芳子