法話

名は声

2025年、令和7年を迎えました。皆様今年もよろしくお願い申しあげます。

 今は冬至が過ぎたとはいえ、まだ日が沈むのは早いものです。寒く晴れた夕刻、西に日が沈むと夕闇が広がるとともに、少し赤い空が残っています。これを黄昏時(たそがれどき)と呼んでいます。

 古くには夕暮れの暗さで人の見分けがつかないとき、「そこの方は誰ですか」との意味で「誰そ彼(たそかれ)」と尋ねたことから、「たそがれ」と言うようになったそうです。
「誰そ彼」と聞かれたら、私は何々ですと名を言う。相手は何々さんでしたか私は誰々ですと挨拶を交わすのが風習だったのですね。街路灯のない時代ですから日が沈むと外は真っ暗です。相手が名のってくださると安心して道を歩くことが出来たのだと思います。

 名という文字が口と夕から出来ているのは、夕の「たそがれ」に名を口から声として相手に聞かせ、その存在を伝えたところから「な」の意味になったと言われています。

 阿弥陀さまは、「思い通りにならない」と私が苦しみや悩みの闇で不安にさいなまれるような時、「誰そ彼」と言う前から阿弥陀と名のり私に働きかけてくださっている仏さまです。

 親鸞さまは南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)とは阿弥陀様の名のりであり、私にその存在を知らせようとする働きだと教えてくださいました。その名が私の声となり響いてくださるのがお念仏です。

 阿弥陀様の名のりを私が称えながら、阿弥陀さまの働きや存在を知らせていただく。ともすれば周りが見えず暗闇のような人生を歩むように思える私ですが、阿弥陀様との出会いで安心して生きる道が見えてくるのであります。

由仁町本覚寺 高橋宗瑛

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