とある現役落研の方が、演目の枕でこんな事を言っていました。「落語家の上手、下手は勿論あるが結局は聞き手の想像力にネタの面白さは左右されるので面白く想像して噺を聞いてください!」
想像力に必要なのは他への興味(関心)と様々な分野の知識(経験)それと柔軟な対応力(やさしさ)だと思います。聞いた言葉を面白く想像するのもしないのも聞き手次第というのも納得できます。
6歳の息子との会話の中で「今日は、雲で夕焼け見えないね。」「そうだね。夕日見えないね。」
曇っていると夕日が見えない。そう言っていると思って夕日が見えないと答えましたが、夕焼けという現象が見られない。そういう意味だったのかなと思うと、決めつけて答えていたことに反省したことがありました。よくあるのですよね、よく考えないで自分の得た知識や経験で物事を決めつけて答えていることが。
気が付いたのは、私自身が興味関心のない話などは、私の答えでつまらなくしている事があると……
正信偈に「不可思議」と言葉が出てきます。「思い議ることができない。言葉で表現できない。」という意味であります。私たちの想像すら至らない仏様の話です。面白くなるよう努力しております。このページをご覧くださっている皆さんは仏様に興味があって見ておられることとおもいますので、おもちの想像力を生かしてください。
話を戻しますと、「南無不可思議光」という一節が不思議なのです。「人智を超え言葉では言い表せない知恵の光の仏に帰依します。」という意訳となるのですが、正信偈を読み進めていきますと、「普放無量無辺光 無礙無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」という文言が出てまいります。これらは、十二光と言って阿弥陀如来の光の徳を讃えている御文なのです。
言葉では言い表せない。表現できない。と言っておきながら…矛盾しているのではないか?
実は、正信偈をお書きになった親鸞聖人は、人ならざるものだったのです。だから表現できたのです。
私自身あながち間違ってもないと思うのですが、ここは皆さんの想像にお任せする事としまして。
本当は、お釈迦様の説かれた「仏説無量寿経」から親鸞聖人が引用したものなのです。
あれ?とまた思われる方がいるかもしれません。そうです、お釈迦様も人間なのです。じゃあなぜ?とお思いでしょう。お釈迦様は悟りを開かれ仏と成られているのです。人でありながら仏なのです。ですから、十二光と表現できたのでしょうね。
もしかすると、親鸞聖人も人でありながら仏と成っていたにもかかわらず、あらゆる人々に気兼ねなく阿弥陀如来の教えを知ってもらうがため、人間くさく生涯を送られた。そんなお方だったと想像すると面白くないですか?
最終的には人間の論理を超えてしまう仏様の話を、できるところまで考えていく(想像)という営みも大切なことのように思います。より深く面白く想像するために様々な仏様お話をお聞きください。
栗山町角田 教覚寺 萩山教秀