「生産性のない人間は生きる価値がないのか?」という問いが投げかけられることがあります。現代社会では、しばしば人間の価値が生産性によって測られがちですが、仏教の教えではすべての命が等しく尊いとされています。阿弥陀如来の本願は、すべての人々を救おうとするものです。どれほど不完全であろうと、どれほど生産的でなかろうと、阿弥陀如来は私たちを等しく救い、すべての命を受け入れてくださいます。
2016年7月、神奈川の知的障害者施設で19人の障害者が殺害される衝撃的な事件が起こりました。事件を起こした元施設職員の男は、「障害者はいなくなった方がいい」という主張から犯行に及んだと報じられました。このような問い「障害者って生きている価値はあるのか?」に対して、逆に「私は生きている価値があるのか?」と自問し考えさせられました。このような問いは他者を一方的に評価することの危うさを指摘するものであり、仏教の「縁起」の教えとも共鳴します。縁起とは、すべての存在が互いに依存し合い、関係し合って存在しているという教えです。私たちは一人で生きているわけではなく、他者との関わりの中で存在しています。
障害を持つ方が社会にとって「負担」と見なされることがありますが、彼らの存在が社会全体に与える影響は計り知れません。駅にあるエレベーターも障害を持つ方々が声を上げ社会に求め続けた結果だそうです。このインフラや制度は、障害を持つ方々だけでなく高齢者や子育て中の親、旅行者など、多くの人々に恩恵をもたらしています。障害者が生きやすい社会は、健常者にとっても生きやすい社会です。多くの障害者たちが声をあげてくれたおかげで、今日の在宅福祉制度の充実にもつながったことを忘れてはなりません。
自然界は「弱肉強食」であると言われますが、肉体的に強いライオンや虎、熊が必ずしも繁栄し続けるわけではなく、むしろ絶滅の危機に瀕しています。人類が今後も生き延びていくためには、できるだけ多様な個体を生かすことが、人類の存続にとって有利に働くと言われています。将来、人工知能やロボティクスが発達し、人類が考えたり動いたりすること自体に価値がなくなる時代が訪れるかもしれません。
もしそんな時代が訪れたら、私たちは何に価値を見出すのでしょうか?その時こそ、私たちの存在そのもの、そして他者とのつながりや、共に生きることの大切さが、改めて問われることになるでしょう。
仏教の教えが示すように、私たちは「生産性」の価値観だけにとらわれるのではなく、すべての命を尊び、共に生きることの大切さを忘れずに生きていくことが必要なのです。
美唄市 常光寺 住職 杉田英智