私のお寺では、札幌組の若手僧侶の皆様がお作りくださっている法語カレンダーをご門徒の方にお配りをしております。10月の法語に、上記文言が載っておりました。私はお参りに行きこの言葉を目にするたびに、不足や欠けていることに心を奪われている私であり、「当たり前」が尊く、「有ることが難い」、まさに有難いものであることを気づかせていただくことでありました。
今年祖母が往生いたしましたが、生前はまだきっと元気なはずだ、そこに行けば何時でも会うことができると常々思っておりました。私にとりましては、生れた時から孫として見守っていてくださり、いつも元気な姿でいる、それが当たり前と思っておりました。しかし命終えていかれ、会うことが出来なくなり、改めてそこにいてくださる有難さに気づかされたことでありました。
先日SNSを見ていたら、このような詩に出会いました。
いつか必ず終わる。いつもそばにいてくれる人ともいつかお別れすることになる。
自由に動かせる体もいつか動かせなくなる。
見飽きているこの風景もいつかは見れなくなる。
しかし、いつかできなくなることも、今ならできる。
今ならそばにいてくれる人にありがとうと言える。
見たい景色も見に行ける。
ただ出来なくなる日は突然やってくる。
後悔しても出来なくなった頃にはもう遅い。
過去に戻ることは誰にもできないのだ。
当たり前に近くにあるもの、当たり前にできることほど、
どれだけ大切で幸せなことか。人は失いを持って体感する。
その日がやってくるまでに今できることをとにかくやってみる。
当たり前を当たり前だと思わないこと、
やらなかったことを後悔しないように。
朝目覚めたこと、ご飯が食べられること、家族や友人と出会い語らうこと、これらはすべて「当たり前」と思いがちです。しかし私の命も、いつ終わるかわからないものであり、日々の出来事も何が起こるかわからない、決して当たり前のものなどなかったのであります。お釈迦様がお示しくださったように、老・病・死に出合っていかなければならない命を生きています。しかしなかなか気づこうともせず生きている私がありました。このようないのちを生きる私だからこそ、当たり前を『有難い』と気づける1日1日を生きていきたいものであります。
長沼町 誓報寺 天野広道