今年も残すところひと月となりました。年末は何かと気ぜわしい毎日でありますが、同時に今年一年を振り返る事も多いことでありましょう。
一年を振り返るとき、多くの出会いが あり、またその一方で悲しい別れもあったことと思います。仏教、浄土真宗の教えをいただくとき、悲しい別れもまた新たな出会いのご縁であるといただきます。それは、大切な方との死別というご縁を通して自らのいのちと向き合い、その中から再び亡き方を仏さまと仰がせて頂き、仏教のみ教え(智慧と慈悲)の世界に生き抜かせていただくのであります。
歌手の宇多田ヒカルさんという方がいらっしゃいます。宇多田さんにひとつの問いかけがされたようです。「誰かとの別れを乗り越えるのはなぜこんなに痛いのか」という英文の質問に、「とても興味深い質問ですね。実は私はあまりそのように考えたことがないんです。関係が終わったり、誰かを失ったりする時に痛みを感じるのであれば、それは最初から心の中にあって、その関係がいたみみ止めのような役割を果たしていたんだと思います。心の中の痛みを紛らわしてくれる存在というか…。そんな支えを失ってしまうことに痛みを感じるのだと思います。たとえ相手に依存しないようにしていたとしても、実際は頼ってしまうというか…。少なくとも、私の経験から学んだことです。」と英文で応えられたそうです。
宇多田さんの人生観とか宗教観を知り得ることは出来ませんが、感性として何かしら受け入れることは出来ますね。私も父親である前住職を亡くしてから既に七年が経っていますが、父親への思いとか思い出は少しずつ薄れていくのかと思っていましたが、実はその逆で生前の姿とか声だとか思い出といったものが回顧され、会いたくもあり寂しく思うことがあります。今この境涯で会うことは叶いませんが、姿があったときは、私が抱えている悲しさだとか寂しさだとかいたみというものが、実はその存在によって痛み止めの役割を果たしていてくれていたんだと思えます。そして亡くなった今、あらためて父親と出会っているのだと思います。そのひとつは、父親が病床にあるとき叔父がお見舞いに行ってくれたとき、「兄さん、人生を振り返って今思うことはあるかい?」という問いかけに、「反省しかない・・・」と。いのちの終焉を迎えてなお「反省しかない」と言わしめたものはなんであったのかと・・・。それはアミダの智慧によって最後の最後まで自らを振り返るはたらきであり、反省してもしきれない人間のありようをそのまま救い遂げるお慈悲に生きる姿であったのではないかといただいております。
浄土真宗の教章(私のいきる道) [生活]には、「親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来の み心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。」と示されています。慚愧と歓喜は智慧と慈悲に出会う(聞く)事によってのみ与えられる人生の生き方であると今は亡き父親のお浄土からのメッセージと味わっています。
そのメッセージが【いたみ止め=手あて】となって、私に届けられてあるお念仏といただいてまいりたいのです。一年を振り返る今、別れても出会い続けることのできるみ教えを今一度深めていきながら、新しい年をお迎えさせて頂きたく存じます。
栗沢町報恩寺 辰田真弥