法話

バカボンのパパと親鸞聖人

 「これでいいのだ!」の名セリフで有名なアニメ「元祖天才バカボン」。私が幼いころ、TVから流れてくるハチャメチャとも思えるその内容から単なるナンセンス・ギャグアニメとしか認識していませんでした。しかし、最近になって「バカボンのパパ語録」なるものを目にした時、思わず前のめりになって夢中で読み込み、しばらくの間、想いをめぐらせてしまいました。そのバカボンのパパの言葉(一部)がこちらです。
 わしはバカボンのパパなのだ!
 この世はむずかしいのだ!
 わしの思うようにならないのだ!
 でもわしは大丈夫なのだ!
 わしはいつでもわしなので大丈夫なのだ!
 これでいいのだ!
 と言ってるから大丈夫なのだ!
 あなたもあなたでそれでいいのだ!
 それでいいのだ/それでいいのだ!
 わしはリタイヤしたのだ!
 全ての心配からリタイヤしたのだ!
 どうだ、これでいいのだ!
 これでいいのだ!
 やっぱりこれでいいのだ!
赤塚不二夫さんが誕生させたアニメ「元祖天才バカボン」も、彼の作品に込めた思いを知ると、その根底には深いものがあり、人生の本質、人間の本質にせまっていると感じました。

 ある雑誌の取材に赤塚さんはこう語っておられます。「ただバカっつったって、ほんとのバカじゃダメなんだからな。知性とパイオニア精神に溢れたバカになんなきゃいけないの。立派なバカになるのは大変なのだ。バカっていうのは自分が裸になることなんだよ。バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ。」

 この記事を読んで私の脳裏をよぎったのは、親鸞聖人の著作「愚禿鈔」の「賢者は、内は賢にして外は愚なり」という言葉でした。親鸞聖人はご自身を「愚禿親鸞」と名乗り、自らを愚かな求道者と意識されていらっしゃいました。愚禿鈔は「法然聖人は内面に阿弥陀仏よりいただいた信心をしっかり持ち、外面では自分は愚痴なる人間だと仰せになる。それに引きかえ私、親鸞は、内面には愚かであさましい心しかなく、それでいて外面では立派な人間を装っている」と懺悔の言葉で始まっています。私達はつい人からよく見られたいと見栄を張ってしまうものです。自分の愚かさなど、出来るだけ誰からも指摘されたくもないものです。等身大の自分を認めることは実はとても難しいのではないでしょうか?

 しかし、親鸞聖人は包み隠さず、ご自身の内側にある愚かさを私達に先立って顕わにして下さったのです。ものごとの本質を簡潔に説明し、腹落ちさせることほど難しいことはないと思います。相対的な固定観念(世間的に一般常識とされる観念)の向こう側にある真実を語っているという点では表現の違いこそあれ、赤塚不二夫さんの思いを代弁しているかのようなバカボンのパパと親鸞聖人にチラリと共通するものを感じてしまうのです。バカボンのパパの常套句「これでいいのだ!」は単なる楽観というものではなく、「これでいい」とひとつひとつ噛みしめながら確認するように大切に真剣に生きる生き方のような味わいがあります。


 浄土真宗のみ教えは、わが身の愚かささえ認め得ぬ私たち凡夫を、あなたはあなたのまま、そのままでいい、と包み込む阿弥陀様の救いを信じて身をゆだねれば、必ず浄土往生は間違いないとお示し下さっています。そのような安心の土台があればこそ、私たちはイキイキと自分らしく私は私のままでいいのだ!!

空知南組 萬行寺住職 坪井宏慧

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